南福岡車両区(旧門司鉄道管理局南福岡電車区)
パソコンを新しくしました2022.10.07
きょうは三連休の前日(昭和55年2月8日)である。16時45分に会社が退けるとすぐに、待たせてあったタクシーに飛び乗った。きょうは待ちに待った真冬の北海道への旅立ちである。羽田空港まで40分掛かった。出発カウンタに着いたのは便出発20分前ぎりぎりである。日本航空523便札幌行きのDC10に乗り、やっと落ち着いた。千歳空港には定刻の19時25分に着いた。ここから札幌駅までは雪が少し降っているのでバスで90分掛かる。 札幌駅へ着くと、丁度、急行「利尻」がDD51に引かれて北の果てへ旅立って行った。さあ、お目当ての21時35分発の急行「狩勝7号」に乗り込んだ。狩勝7号は、B寝台5両、A寝台1両、グリーン車1両、普通車2両、荷物車、郵便車各1両の合計11両の編成である。翌朝眼が覚めると、雪煙を上げながら釧路湿原の中を走っていた。
狩勝7号 札幌21:35→釧路6:15
狩勝8号 釧路21:30→札幌6:33
釧路駅でレンタカーを借りましたが、スパイクタイヤを履いているので国道はそのままで70km/h走行OKです。しかし、雪が10cm以上積もっている所はチェーンを巻いてから走らないとスタックします。
落合-上落合(信)
上厚内-厚内
別当賀-落石
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1983年の夏休みにドイツのライン川へTEE(国際欧州急行)を撮影に行って来ました。ライン川右岸線はローカル線ですが、ライン川左岸線はTEEも走る主要路線です。
①デル・ラインゴルト(Der Rheingold)1962~1987年
②ヴァン・ベートーヴェン(Van Beethoven)1956~1983年
(VT11.5型ディーゼル車両の先頭表示は1957-1971がTEE、1971-1979がInterCity、1979-1988がDBになっていました)
フランスのル・ミストラルと同じTEE(国際欧州急行)だったドイツのデル・ラインゴルトを紹介します。オランダのアムステルダムからライン川沿いにスイスのバーゼルまで走り、更にジュネーブまで走っていた列車です。 デル・ラインゴルトは1962年に新型車両を導入しました。天井がガラス張りの展望車(ADm101型)、厨房が二階にある食堂車(WRm131型)、コンパートメント一等座席車(Avm111型)、アメリカンスタイル一等座席車(Apm121型)から構成されていました。機関車は160km/hのE10型(後のBR113型)が牽引していました。色は青(コバルトブルー)とベージュのツートンカラーで登場しました。 1965年にはル・ミストラルと一緒にTEEに昇格し、ジュネーブまでの運行となりました。 1967年には色が赤(ワインレッド)とベージュのツートンカラーに変わりました。 1976年から200km/h運転となり、ガラス展望車と二階建食堂車からブュッフェ付き座席車と普通の食堂車に変わりました。機関車も200km/hのBR103型に変わりました。 1982年にジュネーブまでの運行をやめて、バーゼルまでとなりました。 1987年にデル・ラインゴルトの運行が終了しました。
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2010年にオーボエという楽器のリードの材料である葦を探して南フランスを車で走り回って来ました。その際に、フランス国鉄のコート・ダジュール区間を訪問して来ましたので、報告させて頂きます。
豪華寝台急行ル・トラン・ブルーはパリ・リヨン駅からカンヌ、ニース、モナコがあるコート・ダジュールを通り、イタリアのヴェンティミリア駅までかつて運行されていました。
下の写真は5両目がP型寝台車(ステンレス車体、一人用個室20室)なので、1960年頃だと思われます。この6連アーチ橋は今でもカンヌの西にあるマンドリュー・ラ・ナプールのヨットハーバーに架かっています。
1988年に日本へ来たオリエント急行の車両はこのトラン・ブルーに使われていた車両です。
Lx型寝台車は1929年から導入され、当初は一人用個室のみ10室の10人用Lx10でしたが、途中で一部または全部を二人用個室に改造したLx16とLx20になり、1968年まで運行されていました。又、箱根ラリック美術館に展示してあるコート・ダジュール型プルマンカーも1929年から導入され、1951年には一部がトラン・ブルー用バーサロンカーに改造されて運行されていました。
トラン・ブルーの列車名は1971年にはワゴン・リ社からフランス国鉄に引き継がれ、2007年には寝台車を全て廃止して座席車のコライユ客車のみとなり、列車名トラン・ブルーは終了しました。一方、豪華寝台列車ル・トラン・ブルーに使われた車両は1976年に一人のスイス人実業家インターフルーク社が購入し、1977年から1993年までノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス(NIOE)という列車名で観光列車として運行されていました。
ニース・ヴィル駅は1867年に開業した当時のまま残っており、豪華寝台急行ル・トラン・ブルーもこの駅に停車し、北ヨーロッパから避寒に来た紳士淑女を出迎えました。
1966年8月2日午後8時、パリ・リヨン駅を出発するル・トランブルー。夜の間にコート・ダジュールまで走ります。下の写真は1962年に撮影されたバー・サロン車の行先標です。
ル・トランブルーのHOゲージ模型の動画を見る
NEW
フランスの模型店から個人輸入したHOゲージ模型です。
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1956~1965年のル・ミストラルはマルセイユ~ニース間で、141R型蒸気機関車が牽引していました。更に、コートダジュール型プルマンカーと52席ワゴンリー食堂車と電源荷物車も連結されていました。空調付きステンレス車はA5型1両、A8型4両の編成でした。
La vi- tesse n'etait pas la seule particularite du Mistral : il y avait aussi le pres- tige du a la presence de la voiture Pullman ! Et dans le train 2 Nice - Paris qui passait sous notre fenetre en debut d'apres-midi, cette voiture Pullman arrivait en debut de rame juste derriere le fourgon, apres la locomotive. Qu'arrivait-il alors ? La precieuse voiture etait soudain voilee par un ra- battement de fumee inopportun ! La ≪ nouveaute ≫ semblait jouer a cache- cache avec moi ! Je finis tout de meme par identifier cette voiture mystere : c'etait un bijou. Une voiture de la Compagnie Internationale des Wagons-Lits dans une livree deux tons, la couleur bleue classique des wagons-lits pour la partie basse de la caisse, et la partie haute, au niveau des baies vitrees, d'un beige creme tres elegant. Ce qui me fascinait le plus, c'etaient les petites lampes roses aux abat-jour diaphanes qui ac- compagnaient chaque fenetre : une image du confort et de la distinction auxquels pouvaient pretendre les heureux elus qui voyageaient dans ces conditions exceptionnelles. Les soirs ou j'avais le droit d'attendre le pas- sage du Mistral impair, le passage du train 1, en direction de Nice, etait en- core plus mysterieux, et les lampes du Pullman semblaient voler dans la nuit comme des fees magiciennes. Oui, j'ai connu le premier Mistral, et aussi le dernier. En fait, je les ai tous connus, et dans des contextes differents ; sur la Cote d'Azur, bien sur, mais aussi en divers points de son trajet entre Marseille et Paris, a l'oc- casion des vacances et surtout quand nous avons demenage, entre- temps, pour ≪ monter a Paris ≫, comme on dit dans le Midi. Durant notre sejour a Toulon, nous avons souvent emprunte la ligne Marseille - Vinti- mille ; ou bien, si nous etions en voiture ou en autocar, nous avons voisine de pres avec la voie ferree : et des trains comme le Mistral, le Train-Bleu ou le Paris-Cote-d'Azur ne passaient pas inapercus. Nous allions a Mar- seille ou a Hyeres, a Nice et, au-dela, a Monaco et jusqu'a San Remo, sur la Riviera italienne. Et, etape apres etape, je pouvais voir le Mistral se ≪ moderniser ≫, dans les paysages de la Cote d'Azur puis, un peu plus tard, aussi en region parisienne et en Bourgogne. Sur la ligne du littoral, aux Pacific 231 G ou H se sont rapidement substi- tuees des americaines, chauffees au fioul. Les 141 R ≪ mazout ≫ ont ins- talle solidement leur monopole sur la Cote d'Azur, et pour longtemps. Elles avaient pour elles leur jeunesse (elles venaient juste d'etre livrees), leur simplicite et leur robustesse. On disait d'elles aussi qu'elles representaient un risque moindre d'incendie, risque omnipresent aux beaux jours dans notre region aride, peuplee de vastes forets de resineux. La rame du Mistral evoluait aussi : des voitures DEV inox commencaient a s'intercaler au milieu des voitures vertes. Puis le train entier fut consti- tue d'un groupe de voitures inox accompagnant le couple restaurant-Pull- man : c'etait du plus bel effet, tradition, luxe et modernite associes. Je me souviens de moments sublimes quand il nous arrivait de faire la course avec les trains!
ミストラルの特徴はスピードだけではありませんでした。プルマン車の存在による威信もありました。 そして、午後の初めに私たちの窓の下を通り過ぎた列車2のニース-パリ行きで、このプルマン車は、機関車の後、バンのすぐ後ろの列車の始点に居ました。 そのとき何が起こっていたのですか? 貴重な車は、突然の煙に突然覆われました! 「ノベルティ」は私とかくれんぼをしているようです! 私はこの謎の車を特定することになります。それは宝石でした。 国際ワゴンリー社のツートンカラーのカラーリング、クラシックなブルーのワゴンリーのボディ下部、および上部(窓周りの非常にエレガントなクリームベージュ)。 私を最も魅了したのは、各窓に付属する透き通ったランプシェード付きの小さなローズピンクのランプでした。これらの例外的な状況で旅行している幸運な少数の人が主張できる快適さと区別のイメージです。 奇妙なミストラルの通過、ニース方向への列車1の通過を待つ権利があった夜はさらに神秘的で、プルマンのランプは妖精のように夜に飛んでいたように見えました マジシャン。 はい、私は最初のミストラルと最後のミストラルを知っていました。 実際、私はそれらをすべて、異なるコンテキストで知っています。 もちろん、コートダジュールではなく、マルセイユとパリの間のルート沿いのさまざまな地点で、休日の間、特にその間に「パリに行く」ように移動したときは、(私たちは南部でそう言います)。 ツーロンでの滞在中、私たちはしばしばマルセイユ-ヴァンティミーユ線に乗りました。 または、車であれコーチであれ、私たちは鉄道に近づきました。そして、ミストラル、トレインブルー、パリコートダジュールなどの列車は見過ごされませんでした。 私たちはマルセイユやイエール、ニース、さらにはイタリアのリビエラのモナコとサンレモに行きました。 そして、少しずつ、パリ地域とブルゴーニュでも、コートダジュールの風景の中に、ミストラルの「近代化」を一歩ずつ見ることができました。 海岸線では、パシフィック型の231 GまたはHが燃料油で加熱されたアメリカ型にすぐに置き換わりました。 141 Rの「燃料油」は、コートダジュールで、そして長い間、しっかりと独占を確立しています。 彼らは彼らのために彼らの若さ(彼らはちょうど配備された)、彼らのシンプルさと堅牢性を持っていました。 また、それらは、火災のリスクが低いこと、広大な針葉樹林が生息する乾燥地域の晴天の遍在するリスクを表すとも言われていました。 ミストラルの列車も進化していました。ステンレス製のDEV車は、環境に優しい車の中に収まり始めていました。 列車全体は、レストランとプルマンのカップルを伴うステンレス鋼のグループで構成されていました。これは、最も美しい効果、伝統、豪華さと現代性を組み合わせたものでした。 私たちが列車で走っていたときの素晴らしい瞬間を覚えています!
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東高島駅に停車中の田端運転所EF65-1103です。
田端運転所のEF65-1100番台は往年のブルートレイン牽引機を思い出させてくれます。
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独仏米の代表的な蒸気機関車の違いを紹介します。
①ドイツのDR01形(ドイツ国有鉄道の急行列車牽引機)
北ドイツ平原をライン川、エルベ川、オーデル川がゆっくりと流れ、全て北海に注いでいます。
従って、C62形蒸気機関車(平坦線用)の3軸動輪を一回り大きくした機関車になっています。
色はベースが黒ですが、車輪のスポークと台車を赤に塗ってあります。
②フランスのPLM241P形(パリ・リヨン・マルセイユ鉄道のミストラル牽引機)
パリからリヨンに行くには、大西洋に注ぐセーヌ川水系と地中海に注ぐローヌ川水系の分水嶺を
越える必要があります。更に、マルセイユからニースまではアルプス山脈が地中海まで張り出して
います。従って、D51形蒸気機関車(勾配線用)の4軸動輪を一回り大きくした機関車になっています。
色はベースがオリーブグリーンで、煙室前部と除煙板を黒に塗ってあります。
③アメリカのUP4000形(ユニオンパシフィック鉄道のビッグボーイ)
中西部から西海岸(サンフランシスコやロサンジェルス)に行くには、ロッキー山脈を越える必要があります。
従って、D51形蒸気機関車(勾配線用)の4軸動輪を2組繋げたマレー式機関車になっています。
色はベースが黒ですが、煙室前部と火室下部を銀色に塗ってあります。
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日本庭園鉄道の皆様、初めまして、宜しくお願い致します。自己紹介を兼ねて投稿した記事をご覧ください。
鉄道模型趣味2000年4月号 にワープ
鉄道模型趣味2002年7月号 にワープ
3.5インチ(89mm)ゲージの蒸気貨物列車の動画 を見る
3.5インチ(89mm)ゲージの江ノ電2000型の動画 を見る
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2015年3月で定年退職を迎え、4月から東京で特許庁の仕事を始めました。(横浜-新川崎-品川間通勤中)
小学生の頃は鶴見駅に新鶴見機関区D51型蒸気機関車が止まっており、石炭をもらって遊んでいました。写真
中学生の頃は鶴見川鉄橋の下を潜って通学していましたが、大潮の時は線路8本の上を渡っていました。写真
(現在は横須賀線×2+京浜東北線×2+東海道線×2+新鶴見貨物線×2+浜川崎貨物線×2=10本)
高校生の頃は鶴見駅に新鶴見機関区職員輸送用のクモハ12013(中原電車区)が止まっていました。写真
現在は鶴見駅のクモハ12013が止まっていた位置にEH500(仙台機関区)が止まっています。写真
(東北本線に投入されたEH500が川崎貨物駅から鶴見駅を経由して新鶴見信号所まで運行されています)
スーパライナーを東京から下関まで牽引していたEF6627は高速貨物Aを同じ下関まで牽引しています。写真
(国鉄時代からEF6627は東京貨物ターミナルから幡生操車場までスーパライナーを牽引していました)
最近のJR電車や私鉄電車の多くはボルスタレス台車を履いており、そこに使われている軸はり式軸箱
支持装置(特許第5771107号)が特許査定されて2015年7月に登録になったので、解説をしたいと思います。解説NEW
パナソニックを2015年3月に定年退職したので、過去の車載用カメラの開発の逸話を話したいと思います。逸話NEW
1979年の東京機関区と門司機関区の写真です。同じ「さくら」のヘッドマークでも、
それぞれの機関区で作製していたので、東京機関区は平面で、門司機関区は球面でした。
「1979年東京機関区(ヘッドマークは平面)」 を見る
「1979年門司機関区(ヘッドマークは球面)」 を見る
昭和40年まで電化されていなかった博多・熊本間を蒸気機関車が寝台特急を牽引していました。
「はやぶさ」を牽引して来たC61型蒸気機関車は、転車台のある竹下駅までバック運転してました。
遠くに見える白い建物は九州松下電器です。当時はマンションが建っていなかったので見えました。
竹下駅の転車台はまだ現役です。ホームの端からでも見えますが、新幹線に乗ると良く見えます。
「はやぶさ」を牽引して来たC61型蒸気機関車 を見るNEW
2017年10月に西鉄8000形が引退するとのこと。夕方の下りだけ、各駅停車として運行されていました。
会社から高宮まで徒歩10分なので残業が無い日に乗っていました。各駅停車なので雑餉隈にも止まります。
28年間ご苦労様西鉄特急8000形 を見るNEW
ななつ星のディーゼル機関車 を見る
ななつ星の客車エンブレム を見る
ななつ星のスイートルーム を見る
ななつ星の覆面試運転@竹下 を見る
ブレーメン中央駅 を見る
ニース・ヴィル駅 を見る
スペイン列車事故と新幹線が売れない理由 を見る
HO model railroad of Union Pacific in 1950's の動画を見る
台湾にある阿里山森林鉄路 の動画を見る
1974年イギリス映画「オリエント急行殺人事件」 を見る
Union Pacific's Triple Track in 1999 の動画を見る
UP's 844 over Tenessee Pass in 1997 の動画を見る
「UPビッグボーイ4014号機復活計画」 の記事
「UPビッグボーイ4014号機ムド輸送」 の動画
「UPビッグボーイ4014号機輸送計画」 の日程
Nゲージレイアウト
2011年3月に南福岡車両区が見えるマンションに引っ越して来ました。
部屋に南福岡車両区とその所属車両の模型をNゲージで再現しました。
福岡空港は通常北側から着陸しますが、北風時は南福岡を中心に左旋回して南側から着陸します。
飛行機の見分け方 にワープ
福岡空港の着陸経路 にワープ
スターフライヤー初便搭乗証明書 を見る
左から813系300番台、811系0番台、415系1500番台、885系、787系、783系。
レイアウト図面 にワープ
長崎運輸センターの817系0番台も夜だけ留置されています。無塗装キットを組立。
817系組立仕様書 にワープ
宅急便コンテナは商品化が許可されないので、自作するしかありません。
大牟田貨物の銀タンコと黄タンコと海コンは販売されてないので、自作しました。
富山から転属して来たEF81-500も仲間に加えました。DE10入換専用のムドも加えました。
KATO製機関車の常点灯回路への改造 を見る
ロームのショットキーバリアダイオード を見る
村田製作所のセラミックコンデンサ を見る>
MICRO製783系のLED化改造 を見る
実物の鉄道レポート
Der Orient-Express nach Tokio im 1988
Die Trambahn des Muenchener Platz im 1999
The Union Pacific Railroad in 2000
The merger of American Railroads in 2005
Cote d'Azur en 2010 lequel le Train Bleu a fonctionne
台湾的森林鉄路(阿里山、太平山)於二零一一年
三井化学大牟田工場のタンクコンテナ「2012年」
川崎貨物駅の水色タンクコンテナ「2013年」
西鉄福岡市内線廃止から35周年「2014年」
新鶴見機関区の貨物列車時刻表「2015年」
新鶴見信号所配線図と各種機関車「2015年」
新鶴見信号所発の機関車運用実績「2015年」
ル・ミストラル56から60周年「2016年」 NEW
ル・ミストラル56誕生物語(日本語訳) NEW
(オリエント急行1988はル・ミストラルとル・トランブルーに使われていた車両から構成されています)
ル・トランブルーの編成図(1951/1960/1965) NEW
マルセイユからの非電化区間を牽引した蒸気機関車「141R420保存協会」 NEW
蒸気機関車141R420を保存している「クレルモン・フェラン機関区」 の動画を見る NEW
「オーヴェルニュ蒸気列車」サン・ジェルマン・デ・フォセ行き の動画を見る NEW
(サン・ジェルマン・デ・フォセはクレルモン・フェランからロアール川の支流アリエ川沿いに北へ下った所です)
相模鉄道開業100周年「2017」 NEW
特急色EF65-1000「2018」 NEW
(JR東日本田端運転所の特急色EF65-1104が時々、JR貨物東高島駅に工臨列車を牽引して止まっています)
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南福岡車両区の歴史
昭和35年、当時の国鉄雑餉隈駅(現・南福岡駅)構内に開設される。略号は「門ミフ」。 昭和62年、国鉄分割民営化によりJR九州本社の直轄となる。略号は「本ミフ」。 営業用車両として最初に配置されたのは近郊形の421系(60Hz専用の低運転台)電車です。 415系(50/60Hz共用)、急行形の475系(60Hz専用)・457系(50/60Hz共用)も配置されました。
昭和43年10月の特急増発後は南福岡電車区には、
583系特急、
485系特急などの
歴史的な特急車両も所属していました。中には上越特急「とき」を改造した
クハ481-500や東北特急「ひばり」を改造したクハ481-600などの
ボンネット型先頭車もあり、国鉄時代最後の黄金期でした。
1974年南福岡電車区配置表 にワープNEW
1980年南福岡電車区配置表 にワープNEW
1990年3月のダイヤ改正に合わせて、783系特急84両と811系通勤44両が新製され、 485系200番台特急20両はリニューアルし、「赤いかもめ」に改造されました。 1994年~2009年には南福岡車両区の顔である813系が新製され、0番台、100番台、200番台、 300番台、400番台(中間)、1000番台、1100番台と増備され、合計228両となりました。
2012年3月には、南福岡車両区へ久々に<新製車両>が投入されて、 817系3000番台 の5編成15両が増えました。ドア横のステッカーは橙色です。 これにより、415系国鉄色が営業運転から外れて31番線に常駐していましたが、 2012年9月21日に415系国鉄色はとうとう小倉工場へ廃車回送されてしまいました。 2013年3月には、817系3000番台の4編成12両が増えて、合計27両になりました。
博多駅で普段見られない珍しい車両
①天草の三角線を走っている「A列車で行こう」が9月22日と23日だけ博多駅から運行しました。
バーカウンターがある大人の列車です。
②九州北部豪雨の影響で豊肥本線の線路が流されたため、「あそぼーい」が南福岡車両区竹下派出に所属し、博多・人吉間で運行していました。
現在は復旧して豊肥本線に戻りました。
③博多駅7番線ホームに停車中の4097レを牽引するEF81-304です。2013年7月11日を最後に運用から離脱してしまいました。
スッピンのステンレス車体を是非保存してほしいです。
④博多駅4番線と5番線の間にある留置線に停車中のJR西日本のキヤ141-2系です。
2編成ある内の下関総合車両所新山口支所(新山口駅)に所属している方です。
NEW
門司港鉄道記念館の保存車両
山陽新幹線が開通する前に山陽本線の特急電車を運転していた元運転士の話では、 直流電車の181系に比べて交直流電車の485系と583系は運転し難かったとのこと。 交流機器の重量増加と脈流対策による牽引力減少、ブレーキ配管の長さと屈曲 による俊敏性低下を感じたとのこと。485系の6M5Tに比べて、583系は 6M6Tなので更に運転時間が長くなり、もし各駅停車なら同じダイヤでは運行 できなかったとのこと。
(485系と583系の具体的な運転方法)
発車駅構内の50km/h制限を過ぎたらマスコンを5ノッチへ投入し、120km/hで
オフする。6Mは3ユニットなので、表示灯が「1・2・3」と点灯し、消灯する。
通過駅の場内信号機が見えてきたらポイント制限の100km/hに備えて、ブレーキ
ハンドルの持ち方を順手から逆手へ持ち替える。最小位置(1.0kg/cm2)に回すと
表示灯の「直通」が点灯する。圧力計が1.0kg/cm2まで上昇すると、表示灯の
「発電」が点灯し、同時にユニット表示灯「1・2・3」も点灯する。電気ブレーキ
が立ち上がると、空気ブレーキは0.4kg/cm2まで緩解する。ハンドル角度を2.0
kg/cm2まで上げて速度計が105km/hになったら、1.0kg/cm2まで戻し、100
km/h寸前で緩める。速度が5km/h落ちるのを待つと、電流が1/2になり、電流遮断
の衝動が1/4になる。制限一杯の100km/hで進入した時は既にマスコンは3ノッチ
に進めて力行を開始する。制限解除後、5ノッチへ投入し、120km/hでオフする。
曲線制限も同様に操作する。停車駅構内の手前で50km/hに減速する。このとき、
1.0kg/cm2まで戻し、45km/h寸前で緩める。45km/h以下にしてはいけない。
なぜなら、ブレーキをかけたときに電気ブレーキが立ち上がらない。停止ブレーキは
ホームに3分の1ほど進入してから使用する。停止直前20km/hで電気ブレーキから
空気ブレーキへ切替わる。ブレーキの効きが一瞬甘くなった後にグッと効いてくるので、
ブレーキハンドルを少し緩め、衝動が去った後に所定位置に戻す。停止位置合致には
邪魔になる操作であるが、プロとして停止位置へ持って行く。衝動防止の操作をしない
と、特に485系はかなりのドン突き衝動が発生するとのこと。
14系寝台特急客車・・・・・・・・・・・・・
スハネフ14-0は妻面が折妻で貫通幌が付いているので格好が良いですね。オハネフ25-100は妻面が平面で、カニ24は妻面 が折妻だが非貫通なので、格好が悪いです。九州寝台特急の末期には、24系から14系に改造された車両が 多かったですが、24系から14系に改造するのは簡単だったようです。24系は電源車から15両先まで電源を供給する 必要があったので、海側と山側の両方に3相交流の引き回し線が貫通していました。従って、14系から24系に改造するの は大改造だったようです。14系は分割併合が簡単なようにスハネフに5両分の発電機を持っているので、はやぶさ/富士 の併結によって24系だったはやぶさ/富士が14系に変わりました。お陰で、スハネフ14-0は最初から最後まで活躍すること ができました。
ED76での牽引・・・・・・・・・・・・・
《ブルートレインの停め方》
15両編成のブルートレインは機関車も入れて、長さ330m、重さ640tです。これを衝動なく正確な位置に停めるのは神業のようです。
一番の原因はブレーキを掛けてから効き始めるまでの空走時間が20秒あるとのこと。同様にブレーキを緩めてから緩み始めるまでの
時間も20秒かかるとのこと。300mも離れた車両を圧縮空気で制御するのだからそうかもしれません。
発車するときに衝動が発生しないように、編成全体用自動弁だけでブレーキをかけて、連結器が伸びた状態で停めるそうです。
停まったら編成全体用自動弁を緩め、機関車用単弁のブレーキを掛けるそうです。なぜなら、自動弁を緩めてから
各車両のブレーキが緩むまでに30秒もかかるとのこと。だから、ブレーキ弁が2つ必要なのですね。
《一番難しい駅》
ED76で15両編成のはやぶさを牽引していた元機関士の話では、門司駅の上りホームとのこと。行き過ぎて停まっても、
手前で停まっても問題だったとのこと。更に、関門トンネルに向かってホームの途中から下り坂になっているとのこと。
1.5m行き過ぎると、ED76から1.2m長いEF81に交換したときにATSの車上子が地上子を越えてしまい、一度バックしないと
発車できないとのこと。10m手前で停めてしまうと、駅手前の入線信号が赤になり、八幡駅で追い越した各駅停車が
門司駅に入線できなくなるとのこと。また、小倉駅の下りホームも難しいとのこと。日豊本線を跨ぐ立体交差の下り坂
を下って直ぐにホームがあり、ホームがカーブして停車目標が最後まで見えないとのこと。
関門トンネルへ向かうEH500「金太郎」
交流区間は電圧が20000ボルトなので、パンタグラフは1つしか上げませんが、 直流区間(関門トンネル)は1500ボルトで電流が沢山流れるのでパンタグラフを2つ上げます。 以前にEF81を運転していたEH500の運転士の話では、運転免許証に例えると EF81は大型免許でEH500はAT限定普通免許とのこと。確かに、EF81には マスコンハンドルの代わりに弓形形状の抵抗切替ノッチ板や弱界磁ハンドルがあります。 ブレーキ弁も自車用と編成全体用の2つもあります。警笛も空気笛と電気笛の 2つあります。足元には砂撒き用ペダルもあります。それに対して、EH500は ブレーキ弁は2つありますが、マスコンハンドルが電車のワンハンドルと同じ 形状(但し、18ノッチのインバータ制御)なので、一見すると電車の運転台 の様に見えます。又、自車用ブレーキ弁(単弁)の微調整が利くので簡単とのこと。 更に、EH500の運転室は広くて快適とのこと。尚、コキ100系の制限速度が 110km/hなので、速度計は120km/hまでしか表示がありませんが、単機なら 120km/h以上出せるとのこと。
JR貨物/南福岡駅通過時刻表
1152列車は大牟田にある三井化学から戻って来るタンクコンテナを積んだコキ100系と空コキ200の編成です。
黒崎の三菱化学で作られた濃硝酸を入れる銀タンコと南延岡の旭化成で作られた液化塩素を入れる黄タンコがあります。
2011年3月に起きた空タンクコンテナを積んだコキ200が脱線した事故が原因でこの様な変則編成になっています。
川崎貨物駅の水色タンコを積んだコキ200は枕ばねを柔らかい二重螺旋コイルばねに交換されて規制が解除されています。
大牟田貨物の銀タンコと黄タンコを積むコキ200も2013年2月26日から規制が解除されました。(祝)
事故調査報告書によると、コキ200の積載重量はコキ100系の40トンに比べて48トンもあるので、
バネ定数を2.9kN/mmから3.4kN/mmへ硬くしているとのこと。また、コキ100系は積載時と空車時
だけだが、コキ200には積載時と空車時と空荷時があり、空荷時の実車試験を行っていなかったとのこと。
つまり、空荷時は重量が軽いのにバネが硬い状態になり、脱線に至ったとのこと。従って、空車時と空荷時
は2.9kN/mmで、積載時だけ3.4kN/mmになる二重螺旋コイルばねを開発したようである。(写真参照)
2013年10月14日にEF81-501が富山機関区から門司機関区へ無動力輸送されました。
これにより、500番台の3両全てが九州へ集結しました。また、453~455の3両も500番台の
車体を流用しているので、500番台の車体6両の内5両が九州へ集結しました。
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